今回取り上げるのは、ロッキード事件(1976年摘発)以前は「戦後の二大疑獄*」と呼ばれた2つの事件。ここには、同じ芸名で2人の女性が登場する。「秀駒」と名乗った彼女らは、事件の渦中で何を考え、その存在にはどんな意味があったのだろうか。

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の2回目/続きを読む
*疑獄=政治問題としてとりあげられるような、大規模な贈収賄事件

芦田内閣(当時)が総辞職にいたった「昭電疑獄」(朝日新聞より)

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「宴会は月に20日、150万円」

 東京新聞の記事によれば取り調べを受けたという小林峯子に、再び捜査の手が伸びたのは翌1949(昭和24)年1月。疑獄捜査に絡んで検察に不正のうわさがあり、それを解明する参院法務委員会の場だった。

 12日付読売新聞は「日野原氏、愛妾揃つ(そろっ)て病気」の見出し。同委の証人喚問で「この日(11日)喚問が予定されていた日野原氏は入院。愛妾『秀駒』こと小林峯子さんも病気のため、出席を拒否した」と報じた。2人に対しては12日にそれぞれ臨床尋問が実施された。

臨床尋問を受ける「秀駒」(『画報現代史2』より)

 翌13日付朝刊の峯子についての記事の見出しは毎日が「秀駒さん泣き出す」、東京が「『秀駒』さん、カ(か)細い声で」。時事新報は「ハデな臨床尋問」だが、中身を見ると、被っていたのが「派手な羽根布団」だったからのようだ。一問一答形式で詳しい日経を見る。

宴会月に廿(二十)回、百五十万円 秀駒さんの臨床尋問 参議院法委

 

 昭電疑獄に絡む検察側の不正を糾明中の参議院法務委員会は、病気を理由に11日出席しなかった昭電社長・日野原節三、「秀駒」こと小林峯子の両氏に対し12日、臨床尋問を行った。伊藤修委員長と4人の委員に速記者を加えた一行は午前10時50分、小林さん宅に到着。峯子さん(30)は白地に紅葉を散らしたあでやかな寝間着姿を病床に起こしたが、新聞社カメラマンの攻撃によよと泣き崩れて、再び布団を頭からすっぽり被ってしまった。やがて平静に返った峯子さんは委員長の尋問に布団から顔だけ出してか細い声で次のように答えた。

 

委員長 ご主人と一緒になったのはいつごろか
峯子 7年前、23の時で、当時主人は昭和化成(工業)の社長をやっていた
委員長 友人を連れて来たのはいつごろか
峯子 昭電社長になってからだが、どんな人が来たか、記憶がない
委員長 月のうち何日ぐらい客が来たか
峯子 20日ぐらい来た
委員長 裁判所の人たちはいたか
峯子 聞いていない
委員長 (去年の)3月に日野原と元検事総長ら、4月に日野原と検事3人が来たのではないか
峯子 知らない
委員長 月にどのくらい遣ったか
峯子 150万円(現在の約1500万円)ぐらいです